一刀両断ミニコラム
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2006年2005年2004年2003年

《2007.02.26》
世界から見たニッポン
 NHKがBSで放送した大河級ドキュメンタリー。2月の10日に明治編として「第一部:西洋の驚きと警戒(前後編)」が、12日に同「第二部:アジアの希望と失望(前後編)」が、そして2月の18日に大正編として「第一部:日本は何故孤立したのか(前後編)」、25日に「第二部:幻に終わったアジア連帯の夢(前後編)」が放送された。各話50分であり、全部合わせると400分にもなる大作である。こういう質の高い中身の濃いドキュメンタリーこそNHKの十八番であろう。民放も優れたドキュメンタリーを多数制作しているが、豊富な資料と取材スケールではとうていかなわない。無論、見る方もそれだけの知識ベースを要求される。例えばこのドキュメンタリーを理解するには、少なくとも明治維新以降の日本の近代史について、ある程度は理解している必要がある。たまに聞かれるNHK不要論を唱えるような手合いは、こうしたドキュメンタリーに価値を見出せない(つまり理解できない頭の構造だ)と告白しているようなものであろう。
 さて、このドキュメンタリーは明治維新以降、日本がアジア各国からどのように見られてきたかをまとめたものである。明治維新の頃、日本は欧米列強と不平等条約を結ばされていた。それを解消するために日本は大変な努力を強いられるのだが、やがてはそれを克服、国力も増して遂に日露戦争ではロシアのバルチック艦隊に壊滅的打撃を与えるという大勝利を得るに至る。当時、黄色人種の国が白人国家を打ち破るなど前代未聞であり、今の感覚で言うならまるで北朝鮮がアメリカ軍を打ち破ったようなものであった。当然、日本国内は戦勝気分で大騒ぎとなった訳だが、実はそんな日本に東南アジア各国も熱い視線を注いでいたのである。
 それは、そうした各国が日本と同様に欧米と不平等条約を結ばされていたり、植民地として支配されていたりしたからであった。独立を志す人達から見れば、日本がアジア希望の星であり、アジアをリードしてアジア全体を欧米列強の支配から解放してくれるのではないかと期待したのである。アジア各国から独立を目指す活動家たちが日本に大勢勉強しにやってきた。だが、彼らの期待は間もなく失望へと変わる事になる。日本はアジアの一員として欧米と対するのではなく、列強と一緒になってアジアへの侵略を開始したからだ。このドキュメンタリーはそうした活動家達の足跡を辿り、日本の外務省資料なども参照しながら、日本の政策運営とアジア諸国との摩擦をじっくりと描いていく。
 このドキュメンタリーを見て感じる事は、こうした日本という国のメンタリティ、即ち文字通り「虎の威を借りて威張り散らす」は現代に至るも何も変わっていないのではないか、ということである。日本は日露戦争で勝利した事で、列強の仲間入りをしたと勘違いしたのである。その実態としては列強からは体よく利用され、結果としてはアジアの憎しみを一身に浴びたに過ぎない。番組中にはアジアに広く視野を持ち、そうしたアジア各国の活動家を支援した民間人も出て来るが、日本全体としてはアジア軽視が圧倒的で国としてもそうした動きをしてきた事は歴史の語る通りである。日本はそのまま中国侵略へ突っ走り、米英と対立して遂にはアジアだけでなく欧米とも戦争を起こして国が廃墟となった訳だ。でありながら、文科相が性懲りもなく「日本は同質国家だ」と発言した事や、本欄でも何度も指摘してきた「平民などどうなったって自分の成績が第一だ」に代表される歪んだエリート意識など、今だに変わらぬメンタリティを良く示していると言えよう。
 番組中に出てくる活動家の代表はあの孫文であるが、番組最後にその孫文が語ったという日本へのメッセージが出てくる。それは「日本がこれから世界に対して、西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の盾となり城となるのか」というものだった。今、日本政府はアジア各国どころか欧州やアフリカからも笑われながら、アメリカべったりを続けている。政府だけがそうなのではなく、日本国民全体でもアメリカについていけば間違いないという考えが多いようだ。せっせと日本はアメリカ国債を60兆円も購入し、侵略戦争戦費の一部まで調達し、米軍が引っ越すといえば引っ越し費用から新居の新築費用まで分担し、アメリカかぶれの経済学者に格差社会をつくられながら何を得たのか。孫文の言葉は今でも全く違和感無しに響く。そして、NHKに対する政府の風当たりが強い理由が、このドキュメンタリーを見ると理解出来るような気になるのである。確かに、アメリカべったりで自分らだけ良い思いをしてる連中にとっては、面白くない内容だからだ。

《2007.02.25》
札束打ち上げ機
 二度延期されたあと、日本の偵察衛星2基がH2Aロケットにより打ち上げられた。2003年に2基を打ち上げたあと残りの失敗で、今回ようやくフル稼働体制が整う事になる。とはいえ、2003年に打ち上げられた方はそろそろ運用寿命が近づいており、しかも発表通りだとするなら解像度も1メートルという事なのでGoogle Earth以下ではないかとも揶揄されるレベル。それに加えて打ち上げられて3年以上経つ先の2基も一体どういうデータを送信してきているのか皆目発表がない。日本政府は打ち上げに先だって、災害情報の収集にも当てるとか言っていたが、そんな物すら収集できないのであろうか。
 衛星の開発・打ち上げ費用もハンパではないが、こういうものは打ち上げただけでは駄目であって、地上での制御・情報解析関連設備も必要で、それやこれやで既に使われた税金は5000億円以上だという。政府は2009年には更に解像度を上げた衛星を打ち上げる計画だそうで、少なくとも民間としては何の役にも立っていないものにさらに数千億円単位で金が使われる事になる。

《2007.02.24》
真犯人は署長らしい
 24日放送のパックイン・ジャーナルによると、下に書いた鹿児島県が公職選挙法違反で12人を起訴したいきさつは、当選を妬んで警察にたれ込んだのがいて、それで警察が動いたものだそうだ。たれ込んだのが誰かは明らかになっていないが、「何が何でも自白させろ」と意気込んだのは署長(当時)だったそうである。なにしろ、容疑者が集まって仕出し弁当を取り当該議員が金を配ったという容疑だというのに、仕出し弁当を出した業者は見つからない上に、当の議員がその時間には数十キロ離れた所にいたアリバイがあったというのだ。当然ながら捜査員にも異論を唱えるのが少なからずいたそうだが、その署長はそういう捜査員を外したり飛ばしたりしたという。あと何人か有罪にするとその署長の成績が1ランク上がるとか、或いはたれ込んだのが恐らくは署長の知り合いだったのではあるまいかなどと想像してしまう。
 ま〜、それにしてもこんな送検を受理する検察も検察だが(担当した検事は知能試験を受けるべきだ)、いずれにしろこの署長こそが自分の点数稼ぎの為には平民などどうなろうと知った事かという奴だ。しかしながら一体その署長が誰だったかなどは当然ながら警察も発表せず、暴露雑誌にも全く報道されないのだから不可思議である。まさかその署長は心神喪失だったとか、当時14歳未満だったから罪を問えないとでも言うのだろうか。
 こういう密室での拷問については、録画を義務づけよという動きがあるが、警察側の反応は極めて鈍い。容疑者との間の信頼関係が損なわれるなどという理屈まで持ち出すのだ(法務大臣)。信頼関係って何だ。何か勘違いしてるんじゃないのか。恐らくはよほど表に出ては具合の悪い事をやっているに違いない。

《2007.02.23》
司法はヤラセか
 鹿児島県の公職選挙法違反は冤罪だ、と12人の被告全員に無罪判決が出た。この冤罪のいきさつについては、日テレ系が昨年9月18日に「嘘ひいごろ、鹿児島選挙違反冤罪疑惑」というタイトルでドキュメンタリーを放送している。細かい話はともかくとして、新聞でも解説されているとおり、最初に犯人をでっちあげる事を大前提としたスケープゴート狩りがその実態である。何らかの容疑で警察へ引っ張ってしまえばあとは好きなだけ日数をかけ、あらゆる精神的拷問にかけて自白調書にサインさせるまで責め続けるという手口は、先に名古屋で再審が却下された毒ぶどう酒事件と全く同じ展開である。名古屋の場合、判決は既に確定しており被告も一人だったが、今度は裁判そのものでの審議であり被告が12人もいた事で思惑通りの展開とはならなかったようだ。
 それにしても検察側の告発内容はひどい。これといった明確な証拠が無かったから、自白を信憑性があるとして根拠にしたと堂々と述べているのである。小学生の裁判ごっこだってもう少しマシな理屈をひねり出しそうな程で、これでは検察官らは刑法をちゃんと読んで理解しているのか疑いたくなるというもの。まさに国家権力による悪質極まりないヤラセと捏造(ねつぞう)であろう。
 そもそも、近代刑法では自白を決定的証拠にしてはならない事になっている。これは拷問を防ぐ為の大原則であり、だからこそ自白を得られたとしてもその物的裏付けが必須とされているのだ。それを真正面から無視したこの検察官らには、職務遂行能力はない。即刻懲戒免職モノである。もっとも、ここまでひどい告発内容を見ると、その背後には「何が何でも犯人を作ってでもあげろ」と命じた大物がいるのではないかという気もしないでもない。さよう、自分の点数稼ぎの為には平民ごときが無実の罪で刑務所に入ろうがどうしようが、知った事ではないというエリート意識に固まったくされ官僚のことである。類似例は水俣病、ライ病患者、薬害エイズなどへの厚生省の対応から、映画にもなった痴漢冤罪事件に至るまで限りなく思い当たるからだ。
 だが、日本の裁判制度にある前近代性はこれだけではない。毒ぶどう酒事件の時にも触れたが、「検察側は自分の立証に必要ないと判断した証拠は提出しなくていい」とか「警察に容疑者を幾らでも拘留しておける代用監獄」とか「裁判官の成績は有罪判決を幾つ出したかで決まる」、果ては「疑わしきは被告の利益とする原則の無視」など、およそ主権在民のコンセプトを踏みにじる数々の現実が闊歩(かっぽ)している。司法が法律の遵守をしないのである。
 ところで、何やら死刑囚が3桁になったとかで騒ぎになっているらしい。色々と問題はあるのだろうが、そもそもそれなら何故、日本には終身刑がないのであろうか。死刑囚らは専用の監獄に閉じこめられ、何時、お呼びがかかるかとびくびくしながら毎日を過ごしている。ここにも日本の法制度にある、非人道的な側面が見られるように感じる。こうした問題が放置されたまま、市民が司法に参加する裁判員制度が実施されようとしている。被害者が検察側に立って被告を尋問する制度まで実現しようとしているのだ。うがった見方をするなら、検察側がどんな無茶をしようと、その責任を一般国民に転嫁出来る仕掛けのようにも考えられよう。憲法改正の前に、今の憲法をちゃんと理解して守る事こそが必要だと、これらの現実は明確に示している。

《2007.02.21》
説明という名の開き直り
 データねつ造で批判を浴びた関西テレビの千草宗一郎社長が、自民党の委員会に出席した。言うまでもなく、コトの経緯を説明する為というのが理由だが、下請けに全て責任を転嫁するそのふてぶてしい態度には、委員会の委員からも「自浄する気がない」などと批判が出るほどであった。極めつけは委員会のあとで記者に語った発言で、「契約上、下請けに賠償責任があるから請求も検討する」という一節であろう。契約上とは良くぞ言ってのけたものだ。下請け側が契約内容に異議申し立てをする事が出来たとは到底思えないではないか。
 この際である。あの番組を見て迷惑を被ったと思った方々、関西テレビの社長宛に損害賠償と精神的苦痛に対する慰謝料でも請求してみては如何であろうか。この社長のように、思い上がった単細胞におのれの矮小さを思い知らせるには、一番良い方法ではないかと思う。実は、イタズラ電話の絶対確実な撃退法というのがある。それは道理を説く事でもなければ、警察に訴える事でもない。相手の声を録音してそのまま相手に聞かせる方法だ。電話をしてる当人は自分が神の使いか何か特別な存在だと思っているからかような迷惑じみた真似が出来るので、そうではない事を思い知らせるには迷惑を受ける側に立たせるのが一番だからだ。そう、この関西テレビ社長がまさにその位置にいるのである。

《2007.02.14》
バレンタインデー不要論
 今年も14日、チョコに振り回される男女が多く出るようだ。辛口子が何時も閲覧している、宗文州コラムがこの問題を取上げていた。アクセス数も多かったそうで、同感諸氏も大勢いたのだろう。辛口子も基本的に氏の主張に同意する。愛の告白にチョコを使わねばならない理由など皆無だが、それでも使うのは一向に構わない。問題は義理チョコであろう。少なくとも義理チョコなどという悪しき風習は今すぐにでも断ち切るべきだ。そんな風習は欧米にはない。第一、バレンダインだからと言ってチョコに直結させる風習すら無いという。
 そもそも、日本でバレンタインデーをブームにしたのが菓子業界の陰謀である事など、今さら論を待つまでもない。実際、菓子メーカはバレンタインの売り上げで1年間を食っているようなものだ。それが証拠に、この時期が過ぎるととりたててチョコの商戦というものを見る事がなくなる。残りの時期は怠惰に過ごしているからである。だから新商品も出て来ないし、市場を拡げようという努力も見えない。近年では海外からのチョコも輸入されるようになって、売り場を見るとそういう物の方が目立っているのが現実だ。努力をせずに惰眠をむさぼっている菓子業界は、結局自分で自分の首を絞めることになっているわけである。誰も義理チョコなど相手にしなくなった時、彼らはおのれの愚かさに気がつくだろうか。恐らくは別の大義名分を作り出し、保身にのみ頭を使うに違いない。そういうメンタリティだから、バレンタインデーに寄りかかったままで平然としていられるのである。

《2007.02.12》
自主憲法制定論の大ウソ
 安倍総理を筆頭に憲法改正論者の言う決まり文句に、今の憲法は占領軍に押しつけられたものであって、我々が自ら考えた憲法を作るべきだ、というものがある。これが大ウソであるという番組が先日、NHK教育TVで放送されていた。2月10日、午後10時からの「焼け跡から生まれた憲法草案」である。これによると、敗戦直後から日本ではそれまで軍部によって弾圧されていた憲法学者らが集まって、欧米の民主憲法に習った独自草案を練り始めていた。後に、それがまとめられて新聞に発表され、それを見た進駐軍がそれを検討、そこから憲法原案が作られ、それが日本政府に示されたのである。更に、その原案は当時の国会で衆議検討され、幾つか修正も加えられた。例えば現憲法の25条などは日本の国会が付け加えたものである。それが今の日本国憲法である。25条は国民に快適な生活を受ける権利を保証するものだが、原型はドイツのワイマール憲法であり、この点からも米国憲法の押しつけなどとはとんでもない言いがかりだと分かる。
 この当時、進駐軍は日本に向かい新しい憲法を制定するように命じていたが、日本政府の出す原案はいずれも進駐軍の期待を大きく裏切るものばかりだった。当時の政党は進歩党、自由党、社会党、共産党の4つであったが、おおざっぱに言って共産党案以外は天皇が国を統治する形態を変えておらず、共産党案では天皇の立場が明確に述べられておらずに共産主義体制を目指すものと言って良かった。明治憲法は天皇が国家を統帥する仕掛けになっていたが、軍部、財界、官僚はそれを利用、天皇を取り囲んで外部と遮断し、事実上天皇を操る事で自らの利権を思うままにむさぼり、国家を荒廃に導いた。その為に進駐軍は日本の再軍備化を防ぐ上でも、この天皇が国家の中心であるという憲法を変えなくてはならないと考えていたのだが、案の定、政治家側の出して来た原案はこの利権の温床を何とかして残そうとするものだった訳である。
 今の憲法の原案となった草案をまとめたのは、純粋な民間の研究者たちだった。彼らはいずれも戦時中は危険思想の持ち主として軍部から謹慎処分を受けたり投獄されたりしていた人たちで、国家権力によって弾圧されるものがどういう事かを身をもって知っていた。だからこそ、民主国家のあるべき姿を思い描いて草案をまとめたのだ。これに対して、甘い汁を吸っていた連中が何を考えたかは前述したとおりである。
 さて、今、この日本国憲法を変えようという単細胞が次第に数を増しつつある。表向きの理由はもっともらしい事を並べているが、得てしてこういう時にその真意は自らの利権確保にあるのが常識というもの。改正論を積極的に推し進めようとしている経団連は、偽装請負などで利益をむさぼり、更に利益を上げる事が競争力だと主張してはばからない連中である。こういう奴らの考える事が日本の再軍備化である事は論を待たない。軍需産業ほど儲かるものはないからだ。何しろ、金をもらって物を壊し、更に金をもらって復興させるんだから、これほど美味しい商売はない。1サイクルで2度儲かるのである。だから自民党の改正原案では自衛隊を明確に軍隊と位置づけ、その存在を合法化している。軍事裁判所を設けるという章があるのだから、誤魔化しようもない。今の憲法に問題があるのは事実だが、それならば「不正行為をした官僚、政治家を糾弾する権利」とやらをまずは国民の権利として正式に条文化してみてはどうか。出来やしまい。
 せっせとアメリカに尻尾を振って同盟国だと言われていい気になっても、アメリカは日本の事などポチとしか思っていない。アメリカが酷いのではなく、国際政治というのはそういうものなのだ。日本が明治維新を乗り越えた頃、日本はアジア各国から羨望の眼差しで見られていたという。ところが、僅か数年でその視線は侮蔑へと変わった。日本が欧米列強と一緒になってアジア侵略を開始したからである。日本は欧米列強の仲間入りをしたと思っていたのだが、実は欧米列強の方は日本を利用していたに過ぎない事は歴史が証明している。欧米列強は日本にアジア侵略をさせて、その脇で遙かに大規模な支配構造を作り、植民地の独立運動を押さえ込んだのである。今、日本は米国すりすり外交で同じ轍を踏んでいる。今度はアジアから冷たい目で見られるのではない。無視されるのである。欧米の仲間入りをした訳でもない事は、常任理事国入り問題で証明されている。次は再軍備でもして、また国土を荒廃させようとしているのだろうか。だが、明治時代と今では決定的な差がある。それは人口の高齢化だ。60歳軍隊でも作るというのか。憲法改正論者という連中の頭がいかに単純で、しかも知識も貧弱かという事が、これだけでもわかるというものだろう。

《2007.02.07》
三位一体改革とは?
 作家の井上ひさし氏が今日付けの読売朝刊に面白いコラムを書いていた。北海道夕張市が財政破綻をした件である。さよう職員はさっさと退職金をもらって逃げ去り、残された市民はこれからおよそ20年に渡って行政サービスの大幅低下などの負担を強いられるというアレである。実はその前に、市はリゾート開発を試み見事に失敗。それが負債の膨張した直接の原因だが、その前には夕張炭坑の閉山があってそもそもそれが発端という訳だから、市民にとってはまさに泣き面にハチが三連発で来たようなものであろう。
 これに対してひさし氏は「村に戻ったらどうか」と提案する。市という規模を維持しようとするから必要以上に負担が増えるので、町、或いはいっその事、村にまで行政規模を縮小し、道路や病院などのインフラは上位自治体に任せてしまえば良いのではないか、というものだ。地方自治法に照らしてみる限り、それは充分に可能に見えるという。夕張市が「町になりたい」と申請すれば、県知事は承認しない訳にはいかないものらしい。現在の夕張市がそんな賢い選択をする可能性は非常に少ないが、このひさし案、まことに慧眼と言うほかはない。
 今、政府は三位一体改革と言って、地方の統合を大規模に進めている。村を統合して町に、町は市に、市も複数を統合して大規模な市にするというものだ。これが行政の簡素化を狙う手順なのだそうだが(それにより地方交付金を減らすのも狙い)、実際には結果としてキメの細かい行政が行えなくなり、住民の帰属意識も薄れるので返って地方が荒廃するのではないか、という説もある。事実、行政効率が上がるどころか複数組織の統合による混乱や、職員、議員数の実質増加など弊害も既に指摘されている。地方の病院で医師不足が深刻化しているのも、これと無関係とは言えないであろう。日本の高齢化が急速に進み、人口も頭打ちになる中、この施策が本当に効率的な政府になるのか、はっきりとした議論をあまり見た事はない。
 夕張市の負債を市民一人頭にすると500万円くらいらしいが、実は国全体も一説によると900兆円という負債を抱えており、国民一人頭の国の負債額はこの夕張市民一人頭の市負債額より大きいのだそうだ。という事は、日本全体が既に破綻しており、そもそも行政規模が大きすぎるのではないか、という方向に考えが行く。別の言い方をするなら、国民人口に対する役人人口が多すぎるのではないかという事だ。今までは成長路線だったから目立たなかったのが急速な高齢化によってその弊害を隠しきれなくなってきた訳で、それに対する一つの解決策が三位一体改革という事なのだが、それが本当に問題を解決してくれるのか、それとも大義名分に隠れて実は役人天国が地盤を固めつつあるのかが怪しいのである。
 それがはっきりしないまま、各種税控除は片端から廃止され、しかも納税権限が地方に移譲されて来ているから地方税も間違いなく増加する。正確には地方に裁量権が行く訳だから必ず増えるとは限らないが、黒字の自治体など殆ど無い以上、必ず増税になると思って間違いはない。つまり、行政機構の効率化より先に増税の津波がもう来ているのである。言い換えれば日本全体の規模で、夕張市を凌ぐ負担増が既に始まっていることになる。井上ひさし氏は、「大きい事はいい事だ」という概念の根本的な見直しを示唆している。これに対して、三位一体改革は統廃合という名の大規模化を行うものだ。さて、その行く末は。

《2007.02.06》
健忘症内閣
 「女は子供を産む機械」発言で顰蹙を買った柳沢厚生労働相、その舌の根も乾かぬうちに今度は「夫婦には子供二人が健全」と発言してまたも物議を醸している。先の発言が問題となり、スッタモンダの末にやっと安倍総理が「解任はしない」と決定した直後なだけに、今度はタダでは済むまい。「論旨を見てもらえれば、真意は蔑視などではないと分かる」と柳沢氏は記者に語ったらしいが、飲み屋でオヤジがクダを巻いているのとは訳が違う。一国の大臣としての立場を考えれば、それが国の方針であるという一面がある訳で、認識が甘いというそしりは免れまい。
 ところで、安倍総理は今回の柳沢発言についても、特に問題はないとして罷免などは全く考えていないと会見。その安倍総理だが、総理になる直前、民放の報道番組に噛みついた事はもうお忘れのようだ。昨年7月、第二次大戦中の中国にあった旧日本軍の731部隊(細菌兵器開発の部隊で中国人を使った人体実験をしたと言われる)に関する報道番組の中、画面の中に安倍ポスターが映ったというだけで、猛抗議をした事である。問題の写真とやらはカメラがパンする時に映ったもので、それこそ「全体の論旨を見れば真意は明らか」なものであった。それを「731と関係あるが如く受け取られかねない」と怒ったというものである。実際、母方の祖父である岸信介は全くの無関係という訳ではなかったようだが(*)、こうまでムキになる所を見ると他にも何かあるのかと勘ぐられても仕方のない反応であった。
 ところが、柳沢発言については一部に問題があったとしてもどうという事はない、という見解なのだから、かように都合に応じて記憶力が自在に変幻する総理となれば、その部下も負けず劣らずに問題発言の何が問題なのかをさっさと忘れる大臣や、愛人を家族と思いこむ大臣や、政治資金規正法の記述を忘れる大臣などが連なっていたとしても不思議ではない。発足以来、こうも続々と不祥事が発覚する内閣も稀れだそうだが、これだけ顔に泥を塗られたらもうこれ以上泥が付く余地などはない、と開き直っているのだろうか。いずれにしろ、指導者が自分の都合で物事をさっさと忘れてしまうとなると、運営される国や国民はたまったものではない。
(*):第二次大戦前から日本は中国に満州という傀儡国家を作り、そこに国内から農民を移民として積極的に送り込んだ。その詳細計画を立案した中心人物は東宮鐵男という関東軍将校だったが、後に東宮が中国で戦死するとその地元では盛大な葬儀が執り行われた。その花輪寄贈者名簿の中に、岸信介も石井四郎(731部隊の総元締)も記名があるのだ。当時、中国で利権を漁った面々の間では繋がりが蜜であった事が伺える。(2006年8月11日、NHKで放送された「満蒙開拓団はこうして送られた」より)

《2007.02.05》
デブの逆襲
 昨年、ヨーロッパ(スペインのマドリード)で始まった「激ヤセ刈り」は世界的広がりを見せて来た。今年になって、米国ではファッションモデルに肥満度下限を設けると業界トップが発言、昨日のニュースではスペインで「店頭にミニサイズの服を飾らない」という協定までが結ばれたそうだ。シンデレラサイズは飾らないが、LLサイズは問題ないというのだから、なかなかのお笑いである。激やせ刈りの一つにきっかけとなったのが、ヤセ願望の余り拒食症になって死ぬのが出ているという指摘だそうだが、それなら肥満による合併症の方が数字としては遙かに深刻だろうし、そちらが改善されているという話も聞かない。
 つまり、これは自らの不摂生を棚に上げてブクブクと太った連中の逆襲に他ならないのである。体型を気にするのは男性より女性だと思うが、古来、女性はふくよかな体型がモテてきた。理由は単純明快で、栄養も不十分で医学も未発達な環境で太っているという事は、健康である事を意味するからだ。丈夫であって、子孫を沢山産んでくれるという事は、氏族にとって重要である。これはどこかの大臣のように、産む機械だと言うような単純思考ではない。近代以前は女性というと虐待され虐げられて来たと考えている向きは多いが、実際は逆であってそんな事をしたら子孫がいなくなる事も分からなかったほど昔の人はバカではなかった。仮にそうであったとしたら、現代の我々がいる訳がない。
 これが逆転したのは、近代になって上記悪条件が改善された為である。特に、伝説的ファッションモデルのツイギー登場が契機となった。スラリと痩せている事が美人の条件となったのである。実際、写真黎明期に撮影されたポートレート写真などに見られる女性像は、皆、日本の飛鳥時代壁画のような体型なのだ。それが一転したのは、ツイギー登場が決定的要因であった。(フランス王朝時代の細腰願望なんてものがあったが、あれは一部上流階級だけの流行だった)
 かくして、痩せ形体型理想論が一般化し、果ては太っているというのは意志が弱く自分もコントロール出来ない奴だ、という風潮までが世の中に蔓延する事となった。この理由で欧米では太っていると就職でも不利だという。しかし、太る痩せるは産まれ持った体質というファクターが大きい。後天的な影響、例えば甘い清涼飲料の大量生産という問題はあるが、それを別にしても太りやすい体質、太らない体質は厳として存在する。テレビに出てくる大食い選手権者は皆ヤセ型だし、逆に相撲取りはそういう場では意外と勝てない。
 しかしながら、元々太りやすい体質であっても、肥満と言われるブクブク体型になるというのは、本人の不摂生による部分が大きい。欲求のおもむくままに食べまくっていれば、太るのは当たり前であって、その意味では本人の資質だといわれるのは免れえないのである。ところが長年に渡ってデブ、デブと言われて来た連中が、一矢報いる格好のターゲットを見つけた。それがこの激ヤセ追放運動なのである。言いだしっぺ連中が揃いも揃って肥満体型なのが動かぬ証拠であろう。自分らが太っているのではなく、不必要に痩せている奴がいるから自分らが太って見えるのだ、という屁理屈だ。これを押し通してしまえば、食べたいものを食べたいだけ食べて欲求を満たせるし、表で堂々と歩く事も出来る。そのうち、「太っているのは美しい」運動でも始めるのではあるまいか。

《2007.02.03》
中国の方が民主国家か?
 放送のデジタル化を進めているのは日本だけではない。欧米は無論、隣の中国でも同様である。ただし、そこには消費者の選択肢という決定的な違いがあるのだ。中国の国家広播電影電視総局は、3日、「各地が有線放送のデジタル化を進める場合は、人々の選択権を尊重しなければならず、公聴会など多くの手段で広く意見を集める必要がある」(人民網日本版より)と明確に指摘した。これは、デジタル化に伴って装置の買い換えなど視聴者の負担が増える事に対する不満がある事を背景に、【ユーザを一番に】考えるように求めたもので、「法律で決まってます」とバカの一つ覚えを繰り返す日本と比べてみると、まるでどっちが民主国家かと思えてしまう。
 日本のデジタル放送化が如何に怪しげかについては、本欄でもこれまで数多く指摘してきたが、今度はICカード不要のコピー防止技術とやらを放送事業者側とメーカが発表した。これによって今までのように個人情報の登録が不要になる、というのが触れ込みだそうだが、それじゃ今までに登録してしまった視聴者こそ、良い面の皮ではないか。ユーザをバカにするにも程がある。そもそも、B-CASやC-CASのカード登録は、実態すら明らかではなく取材にも応じない天下り組織が管轄している。それに対する批判の声が出始めているから、先手を打って「新」技術を発表したのではないかと勘ぐりたくもなろう。タイミングが良すぎる。
 日本に於けるデジタル放送は、嫌がらせと言ってもいい位に消費者搾取を徹底している。プロテクトに関してならユーザが自分で保存する事すら幾つも制限があり、それに対する批判の声が強まると「これならユーザに自由なコピーが出来ます」と「次世代新システム(EPN)」を発表、また装置の全買い換えを求めるという厚顔無恥ぶりだ。ハイビジョンこそがデジタルのメリットと言っていながら、ある日突然「ワンセグ」という猫の額みたいな画面でしか見られない低解像度を推進する。これが携帯電話業界への「あめ玉」であるのは明らか。携帯と言えば従来の有線電話の収入が減ると、本来なら携帯電話会社が補償すべきその分は消費者に転嫁した。
 ハイビジョン録画については、Blu-Rayなどの新ディスクを採用した超高価な装置を買わせる為に、安価に保存が出来たD-VHSデッキをあっという間に製造終了にした。CATVなどの業者が、契約者向けに地上デジタル放送を従来のアナログ放送電波に変換して配信する事は厳禁にし、何が何でも視聴者に装置の買い換えを強制する。デジタル放送にはコピーワンス信号が必ず乗っていて、これを著作者の権利だと述べているが、著作権者が「自分のコンテンツについてはプロテクト無しで放送したい」と言ってもそれを認めない。著作権保持者と言っているのは、コンテンツ配信業者の事であって、著作物を作った人間の事ではないのである。
 こうして現状を並べて来ると、日本のデジタル放送の実態はまるで旧ソ連のシステムと同じである事が分かるだろう。そこに見られるのは、新システム導入を格好のチャンスと見て私腹を肥やす事しか考えないメーカと政府である。国民主権という題目も無視して、何が憲法改正だろうかと思う訳だが、恐らく国民とは自分らの事であるという考えしか頭に無いのであろう。改めて冒頭の中国の実情を見ると、どっちが民主国家かと思えて来ないであろうか。

《2007.02.01》
あるある大分析?
 テレビ局側は甘く見ていたようだが、「あるある大辞典」とかいう番組のねつ造問題、火の手は増す一方である。ちなみに辛口子はこの番組は見た事がない。バラエティ仕立ての番組なぞをまともに見ていたら、間違いなくバカになるからである。
 そもそも地上波の嘘八百誇大広告は今に始まった事ではない。体に良い○○というネタに絞っただけで、一体幾つ思い当たるか考えてみて欲しい。紅茶キノコ、赤ワイン、コーヒー、タマネギ、チョコレート、みそ汁・・・幾らでもあるであろう。どんな食物であろうと何かしら体に良い成分はあるもので、毒ですら薄めれば薬になるほどだ。いちいち信じて買いに走る方が愚かなのである。食べ物系に限らなくても、「今、人跡未踏の洞窟に初めて足を踏み入れる」というナレーションの中、画面は洞窟の内側からの撮影であることなど珍しくもない。例え真の意味でのドキュメンタリーであろうと、そこには制作者の意図は必ずあるのだから、厳密に言えば大なり小なり番組というのはヤラセなのだ。見る側がそれをベースに、頭を使って判断するべきものである。
 現在、主に暴露雑誌系が格好のネタとしてこの「あるある」騒動を煽っているが、そういう雑誌にしたところで訴訟を抱えてたりするのであって、まあ目くそ鼻くそを笑うという所であろう。この問題、考えてみるとその本質はヤラセにあるのではない。見る側の問題は上に書いた通りだが、テレビ局側の頭だって大同小異だ。偉そうに批判しているフジテレビの日枝にしたところで、昨年「録画したものをCMスキップするのは著作権法違反だ」と発言して顰蹙モノだったのだ。自分の都合で映画をブツ切りにして放送する奴が何を言うか、と陰では笑われていた事だろう。こんなのが年収1億円なのである。
 この番組、聞く所によると制作費は5000万円くらいらしい。これが地方局に行き、下請けに発注され、そこから孫請けのプロダクションが実際に作るのだろうが、その段階ごとにピンハネされていくから、現場での制作費はこの半分以下なのではないだろうか。これでは完璧な検証など出来る訳がない。アメリカにまで取材に行き、予定していたコメントが取れなかったからと再度渡米などする余裕はないのである。それで注文する局は「視聴率10%を取れ」とだけ命じるのだから楽なものだ。テレビ局の社員はどんなに無能でも40歳で年収2000万とか言われるが、一体何をしているのかと言えばこんな事である。現場に顔も出さないという話も聞く。
 言うまでもなく、その根底には視聴率万能主義がある。視聴率というのは数値だから、要は数さえ集めれば上がる。つまり、野次馬を如何に集めるかと同じであって、当然ながら大きな音を出す、派手な光を乱舞させる、裸を出す、ヤセるとか安いという生活情報を出す、アホを動員する(自分はアレよりはマシだと視聴者を満足させる)などの戦略しかやれる事は限られてくる。だが、その上にあまり語られていないのが、いわゆる自主規制によって自縄自縛になっている事だ。ここに書いた条件のうちで、今では見られなくなっている裸であるが、かつてはゴールデンアワーの「バカ殿様」やもう少し昔の「時間ですよ」(DVDが出ている)など、意味もない裸の出現例は枚挙にいとまがなかった。今は伝説の11PMなどは、まだ意味付けして裸を出していた方だった。で、法的な問題はともかくとして、これらは自主規制によるものである。これが無ければ今でも乱舞しているに違いない。同様に例えば食べ物を放り投げるようなギャグも見あたらなくなった。実際の制作現場で働いている人なら、ウンザリするような「禁止項目」と毎日格闘している事だろう。放送禁止用語のリストなどを見ていると、よくぞこれで番組が作れると思わないだろうか。どこのチャンネルを見ても、似たような芸人と笑い声しか見あたらなくなっている理由がここにある。この中で安価な制作費で視聴率を取れと言われれば、どうなるかは明らかだったのだ。
 「あれは駄目」「これは駄目」を重ねて行くとどうなるか、という見本がここにある。関西テレビは調査委員会を立ち上げたようだが、こうした問題に本気で切り込めるかは非常に疑問である。仮に切り込んだとしても、今のテレビ局には路線転換する余裕も能力も無いから結局は何も変わらないだろう。というより、世の中すべてがヤラセに近い事実隠蔽の流れにあるのである。
 これはテレビ界だけではない「あれも駄目」「これも駄目」という風潮の蔓延のことだ。談合はダメ、タバコはダメ、政治資金の流用はダメ、天下りはダメ、イジメは駄目、差別は駄目・・・確かにダメである。辛口子も不正や差別を奨励している訳ではない。だが、ダメだと言って「臭い物にフタ」をすれば解決する問題でもないのが事実だろう。臭い物が無くなる訳ではないからだ。無理にフタをすれば、必ず予期せぬ形でそれが噴き出す。現実にイジメや差別が陰湿化し、学校では教師がターゲットになっているのはその格好の一例だろう。
 そして、こう考えてくると絶望的な気分になってくるのが学会の「自主規制」、すなわち魚や昆虫の和名をターゲットにした「言葉刈り」である。メクラウナギをホソヌタウナギ、バカジャコをリュウキュウキビナゴなどとする「新和名」を日本魚類学会が発表したからだ。昆虫学会にも同じ動きがあるという。大体、洞窟や深海など光の無い所で生きる生物には、目の無い物が当たり前でそれ故にメクラ○○という名前の物は非常に多い。彼らは環境に適応した進化をしたのであって、差別も迫害もされた訳ではない。にも関わらず、「名前を変えたから差別が無くなる訳ではないが」と言いながら風潮に押されて「改名」をするというのだから、学会も情けなくなったものだ。世間とは一線を画して真理探究に取り組む姿勢こそが学者の姿ではないかと思っていたが、今や世間にへいこらするものになったらしい。人間は進化の袋小路にいると指摘する学説もあるが、袋小路どころか退化への道を辿り始めたようだ。知性の最前線がこれでは、テレビ局の生まれ変わりなど、望むべくもあるまい。

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